方法論依存アイデア欠乏症 自由感想文の不自由さ

       
   

何にでも「やり方」があるのか?

僕は腰が重い

別に腰回りにぜい肉がついているという意味でもあるけれど

行動するのが人より遅い

だから「先んずれば人を制す」とか「早いもの勝ち」なんて言葉が大っ嫌い

先んじて転げたり、突っ走っていった奴の先に崖があればいいのに、といつも思う

けど、そういう人たちの目には崖の、その向こうの綺麗な世界が見えているんだよね

ところで、何で自分は腰が重いんだろう?と考えてみた

そうすると、どうも自分は「やり方」という鎖に足が絡まっているみたいだ

僕の経験と、僕の身近の人たちを観察しながら、ちょっとその問題について考えてみようと思う

自由感想文が大嫌い

思い返せば、夏休みの宿題の自由感想文というのが嫌いだった

「自由」感想文なんだから、それこそ「自由」に書けばいい

けど、その自由こそ「不自由」のはじまり

もちろん、先生は基本的な書き方を教えてくれる

起承転結を考えて書きましょう、とか、序論・本論・結論、とか

僕が言いたいのはそういうレベルじゃなくて

もっと根っこの部分、たとえば「面白かったです」とか、そういうレベル

自由感想文の課題図書なんて、基本面白くない

それならポケモンバトルとか、ドッチボールしてる方が100倍面白い

けどまあ、「オモシロクアリマセン」なんて書けば先生からいぶかしい目で見られる

だから「わたしは、この本をおもしろいとおもいました。」なんて書くわけだけど、後が続かない

作文なんだから、次に書かないといけないのは、「なぜ面白かったの?」とか

「どういった場面が面白かったの?」という問いに対する答えだ

そりゃまあ興味のない本なのだから、書けないに決まってる

まだあと386文字も残ってるぜ。

パニック!!!

どんどん時間が過ぎていくじゃあないか!!!

明日は9月1日なのに!!!

計算ドリルに漢字ドリルも残っているのに!

ファッ○!!

最終的には、お母さんとか、お父さんとか、先生とかに、手伝ってもらいながら、決して自分の書き方ではない「やり方」を学んで、提出する

僕は、幸い、小学生の時は感受性が豊かだったのか、それとも単に生意気だったのか、作文を書くのは得意「だった」

「わたしは〜だとおもいます。なぜなら〜」という定型文が大っ嫌いだったので

擬音語とかで、冒頭にすこし色をつける

『どかーん!!!』そのおとに、わたしはびっくりした。この本のまん中で主人公の○○は〜

とか、そういった書き出しをすれば、他の人と一緒じゃないし、かっこいいと思ったのだ

優しい先生は評価してくれて、二重丸をつけてくれた

問題はその後だ

先生「伊藤君の小説は大変素晴らしかったので、ぜひ読んでもらいます。」

は???

テメェなに言ってるんだババァ

顔を真っ赤にしながら、おそるおそる自分の書いた文章を読み上げる

「どかーん!!!そのおとに、私はびっくr」

クラスに響くどかーんとした笑い声

先生にとって二重丸でも、3年3組という小さな社会ではそれは二重ペケなのだ

そんな経験から、6年生になる頃には

「私は、〇〇だと思いました。なぜなら〜」なんてきっちりした「やり方」に洗脳される

この頃から、アイデアを出すのは怖い

方法論を学べば、少なくともみんなに笑われることはない、という病にかかってしまった

 

余談だけど、今じゃ宿題代行サービスなんてものがあるらしい

今の小学生は羨ましいね

 

続く・・・かも自由英作文編に

 

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